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2005年03月19日

ビョルンソンという作曲家

エリザベート・レイトン(Vn) ジェイムズ・リズニー(P) ほか
ビョルンソン;Pソナタ・Vnのためのロマンス第1・2番 ほか(OLYMPIA)
アウルニ・ビョルンソンはアイスランドの作曲家(1905年生、1995年没)。
先日、このページを読まれた方からメールを頂戴した際、この作曲家について「北欧的な澄みきった感じやメランコリックな雰囲気なのですが、またどこか独自の味のある音楽」と御紹介いただいた。
ピアニストの公式WebpageでPソナタの第1楽章を試聴したところ佳い感じだったので、あちこち捜してみて、Amazon Marketplaceでオーダー、1週間ほどで届いたもの。
標記2曲のほか、歌曲17曲を収めている。歌唱はグンナー・グドビョルンソン(Ten)。
1996年6月、イースト・ウッドヘイ(イギリス・ハンプシャー)の聖マーティン教会での録音。
作曲家について、ブックレットの解説を以下に抄録する。
1905年北極圏近くの農家に生まれたビョルンソンは幼時から音楽の才能を発揮、ほとんど独学で音楽を学んで、17歳の頃には国中の合唱団を指揮して廻っていたという。
その後首都レイキャビクへ出て本格的な音楽教育を受け、アイスランド響の創設に当たってはフルート奏者として参加した。
ところが当時(1930年頃か)のアイスランド響では給料が出せなかったため、彼は教職のほか、レイキャビクのダンスホールのバンドでピアノを弾いて生計を立てていたという。
その頃から作曲を始め、管弦楽曲や室内楽はもちろん、軍楽隊の行進曲や、タンゴやフォックストロットといったダンスホールの音楽まで、あらゆる分野の作品を書いた。
1940年代にマンチェスターの王立音楽院に留学、第二次世界大戦後にはアイスランドを代表する作曲家として知られるようになった。
ところが、完成すればアイスランド初のオペラとなる作品を書いていた1952年、不運にも暴力事件に巻き込まれ、脳に障害が遺ってしまった。
読み書きを学び直すという苦労を強いられたにもかかわらず、ピアノの演奏や作曲のしかたは忘れていなかったという。
事件後は作風も変化し、遅いテンポと簡素な管弦楽法のものが多くなったが、木管合奏のための「民謡風の主題による変奏曲」は、1970年にデンマーク放送が行った北欧作曲コンクールで一位を獲得した。
晩年は、妻ヘルガの献身的な介護を受けながら、オルガニストとして教会や病院で演奏していたとのことである。
 
リズニーがビョルンソンの音楽に出会ったのには一つの偶然があった。
リズニーの妻の生徒の中にアイスランド出身の若いヴァイオリニストがおり、レイキャビクで開かれた彼のリサイタルでピアノ伴奏を引き受けたところ、リハーサルを聴きに来たヴァイオリニストの祖父が、ビョルンソンその人だったという。
当時80歳代半ばであったが気品ある立派な男ぶりであったとか。

投稿者 seikaisei : 2005年03月19日 20:03

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