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2005年02月13日

義江彰夫氏の論考を読む

『公共哲学 15 文化と芸能から考える公共性』(東京大学出版会)
帯の惹句には、
「生活世界から公共世界を形成するために 生活者の視点に立って公共性の創成可能性を探究」
「人びとの共鳴・協働を生み出す芸能の世界に何を見いだせるか。 文化や芸能・芸術の持つ公共的な価値とはどこに求められるか。」
という題目が記されている。国家や政府、政治権力の枠にとらわれない汎世界的な共同体の有り様を論じた叢書の一巻である。
 
本書に、義江彰夫 「音楽と公共性・公共世界の関係に関する一試論」という論文が収められている。
著者の本業は古代・中世の日本史家。同書には別論文「日本中世の芸能をめぐる共同体と権力」も掲載されている。
 
20頁に満たない小論であるが、著者年来の考察が集成されており、強い問題提起をはらむ。
次の4人の作曲家・作品を取り上げ、それぞれの曲には、その時代に作曲家を取り巻いていた個人と社会、民族と世界の問題が凝縮されていると説く。
詳細は同書を参照されたいが、その手引きとして以下に抄録する。
 
ベートーヴェン;Vn協
第1楽章では管弦楽の提示する主題に従っていた独奏が、第2楽章では独自の旋律を歌い始め、第3楽章では管弦楽をリードするに至る。
独奏を個人、管弦楽を社会と見るならば、ヘーゲルの弁証法やルソーの社会契約思想を音楽で表現すればこの作品になる、と言っていい。
しかし、個人と全体の調和はなく、個人の理念や利害が公共性にすり替わる危険性を残す。
ワーグナー;ニーベルングの指環
西欧市民社会は資本主義が生み出す欲望の追求の結果として行き詰まるが、欲望からの解放と愛の絆がそれを解決する。
ベートーヴェンの個人中心的な公共性の矛盾を打破し、支配・被支配のない公共性を備えた社会を提示。
マーラー;交響曲第5番ほか
第1楽章の葬送行進曲から第3楽章までの抑圧的・悲劇的な曲調は男女の結婚に対する苦悩を現すが、第4楽章(アダージェット)で彼のホモセクシュアリティがアルマから承認されることにより第5楽章での勝利が導かれる。
第6~8番を経て「大地の歌」の終楽章「告別」(男同士の別れが歌われる)に至ってマーラーはホモセクシュアリティの世界からの訣別に成功し、第10番で更に高い次元でヘテロセクシュアリティの世界に向き合おうとする決意を表現する。
この歩みは、マーラーが、ホモジニアスな西欧市民社会を超越するヘテロジニアスな社会・民族間関係を構築する展望を示している。
シベリウス;Vn協、交響曲第7番
Vn協では、ベートーヴェンのような独奏(=個人)が管弦楽(=社会)を支配するものに成長するという図式を否定し、独奏のイニシアティブを介しての両者の対等な関係の構築という新しい境地を開拓している。
これは西欧市民社会の周縁に成立したフィンランド内の個人と社会の関係にとどまらず、フィンランドと諸民族との関係に発展する。
交響曲第7番において、相互に違和感のある数個の動機は諸民族間の葛藤を象徴し、螺旋状的な展開を通して全体の融合が示唆されたところで終結する。
音楽の上で最終的な結論が与えられないのは、真の解決は聴衆が主体的・持続的に取り組んでいく結果に委ねられているからである。
シベリウスの音楽は、民族性を基礎に置きながら、国民国家の枠を超え、諸民族との葛藤を通しての連係と共存を目指す内容で満たされている。
 
Vn協2曲の造型の違いなど、なるほどそうかもと頷ける気がする反面、マーラーのホモセクシュアリティと交響曲の意味関連については眉に唾したくなるのも正直なところ(笑)。
とはいえ、音楽史を音楽だけの(楽譜の中で完結する)発展の様相としてとらえるのではなく、音楽家が時代を・時代の精神を<深く>反映して作品をつくりあげてゆくという前提を承認するならば、簡単に笑殺するわけにもいかないだろう。
作曲家の言説の中にではなく、音楽そのものの分析から、作曲家と時代・社会との関わりを読みとることができる(読みとらねばならない)という、重大な問題提起として受け止めたい。
だからといってそれはないでしょう、という部分は否定しきれないかもしれないが、では何があるのか、という質問に答えられる音楽史家・音楽美学者は存在するのだろうか。
実は斉諧生は、義江彰夫氏と個人的な面識がある。もう20年以上も前のことだが…。
当時、音楽について話し合ったことはほとんど無かったのは今思えば残念だが、それでも既に
「ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲ね、あれはね、弁証法ですよ。」
と力説しておられたことを思い出す。
また、ある時村上陽一郎氏が聞き役を務めるラジオ番組にゲスト出演され、
ダヴィード・オイストラフ(Vn) アンドレ・クリュイタンス(指揮) フランス国立放送管
ベートーヴェン;Vn協(EMI)
について語っておられたことも記憶している。
まだLP時代のことで、各種プレスにより音が違うが米Angel盤が最上、と言っておられた。
やはりマニアというほかない(苦笑)。

投稿者 seikaisei : 2005年02月13日 19:57

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コメント

大学の先輩の義江氏のご自宅に、学友と一緒に遊びに行ったときのことです(立派な家だった!)。フルトヴェングラー指揮の第九を聴かされ、解説つきで、「これぞ、弁証法だ!」と言われ、それがずーっと耳から離れず、何十年経ってもまとわり付いています。 彼も、学生の頃のテーマ「音楽と弁証法」を何十年も引きずっているんですね。なんかとっても嬉しいような‥。日本古代史と西欧音楽という組み合わせもなかなか粋でいいですよね。 あの頃の印象では、国史よりもベートーベンの方により関心があったようでしたよ♪

投稿者 富原無量 : 2005年08月29日 02:56

富原様、はじめまして。
コメントありがとうございました。
システムの不具合で御迷惑をおかけしたことと存じます。
重複分は削除させていただきました。
 
なるほど義江先生の「音楽と弁証法」は、もっともっと遡るのですね。
やっぱり若い頃から天才肌でいらっしゃったんだ…。(嘆)
 
風の便りに今春定年退官されたと聞きましたが、まだまだ御活躍をと願っております。
 
今後ともよろしくお願い申し上げます。
>富原様

投稿者 斉諧生 : 2005年08月29日 06:07

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投稿者 Benjamin Bartrim : 2005年12月14日 04:00

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