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2005年02月06日

ボッセのベートーヴェン・アーベント

地元のホール高槻現代劇場で、ゲルハルト・ボッセ(指揮) 大阪センチュリー響の演奏会を聴く。
ボッセ氏は高槻市に住んでおられ、当地でのコンサートは今日が5回目とのこと。
前回までの情報をまったく知らず、聴き逃していたのは残念。
このホールは阪急高槻市駅から徒歩5分以内、京都・大阪の中間点にあって特急が停車するのでどちらのターミナルからも30分以内で来場できる。
もっと企画とPRに励めば、ここを中心とした豊かな音楽文化が栄えるのでは…と期待したいところである。
 
中ホールは約600席、音響は悪くなく、室内楽、小編成のオーケストラや合唱に良い器ではないかと感じている。
今日は8~9割の入り。
 
オール・ベートーヴェン・プログラムで、
序曲「プロメテウスの創造物」
交響曲第1番
Vn協(独奏;カトリーン・ショルツ)
と、コンチェルトを休憩後に配する。
 
ボッセ氏は、昨年7月10日の項に記した講演会で、ベートーヴェンに対するC.P.E.バッハ等の影響を強調し、ピリオド・アプローチによる演奏への共感を強く打ち出しておられた。
例えば、
自分としては、過去のドイツの大家の演奏解釈には、今となっては共感しかねるところがある。
フルトヴェングラーやワルターといった大指揮者は、19世紀の音楽の伝統を受けつぎ、マーラーやR・シュトラウスなどの響きのイメージの中で音楽を創っていた。
それに対し、18世紀のC.P.E.バッハの音楽はまったく別な世界である。音もべったり作ってはいけない。アーティキュレーションが重要で、音の頭・延ばし方・終わり方・次の音(または休符)を注意して作っていくと、まったく別な響きが得られる。
ラトルの演奏は、ところどころ素晴らしく、共感できる。
ジンマンの演奏は、おそらく最も速いものだろうが、合理的だ。
アーノンクールも、なかなか良い。
 
実際の演奏が、どの程度まで古楽風になっているのか、非常に興味を持って聴きに出かけた。
管弦楽の編成は、弦が10-8-6-6-4、管楽器はもちろん2管。
下手に第1Vn・第2Vn、上手にVa・Cbを配置するやり方で、高関健のもとでは対向配置を実践していたオーケストラだけに、もしかしたらあまり徹底したモダン・ピリオドではないのかもしれない、と予感した。
 
なお、昨年5月に左上腕骨と左大腿骨を骨折されたボッセ氏だが、椅子も用いず、終始元気に指揮しておられたので安心した。
 
序曲冒頭のトゥッティは音価を短めに取っており、やはりピリオド…と思ったが、ヴィブラートは排さず、自然に弾かせていたようだ。
一言でいえば、キビキビしたベートーヴェン。
 
交響曲でも、快速でキビキビした音楽は同様。
終楽章コーダに向けての追い込みでは、ホルンや木管を音を割り気味に強奏させ、迫力ある表現をとる。
 
目立ったのは、長い音符での音の減衰や、フレーズの中でのデクレッシェンドを多用し、清潔な美しさを表出していたこと。
例えば第3楽章のトリオ冒頭、木管がpで繰り返す和音をそれぞれデクレッシェンド。
ヴィブラートも控えめに使わせており、第2楽章展開部冒頭のppでは、神秘的な和音がくっきりと浮かび上がった。
 
休憩後の協奏曲では、独奏者のスタイルが前面に出て、ドイツ伝統の新古典的な演奏様式を聴くことになった。
デビュー当時の「お嬢様」イメージが強いショルツだが、実際にはけっこう大柄だったので目を見張った。
1969年生れというから30歳代半ば、既にベルリン室内管を10年間率いるからには、それなりに逞しい人なのだろう。
髪も短くしており、がっちりした肩に、引き締まった体型。
 
音楽も、所謂女流ふうのなよやかな媚や何か風変わりなことをする素振りは毛筋ほどもなく、堂々たる正攻法、ドイツ伝統のベートーヴェン。
第1楽章開曲早々は高音に少し硬さも聴かれたが、中低音の美しい音色と和音感覚をベースにどんどん調子を上げていく。
ヨアヒムのカデンツァなどは間然とするところなく弾ききった。
もちろん剛球一本ではなく、第2楽章後半で独奏Vnが新しい旋律を出すところなど、ゆったりしたテンポで実に美しい。
 
贅沢を言うとすれば、技術的・音楽的にもう一次元上に突き抜けて、心の底からの幸福感、更には神々しさをも顕現するような音楽であれば…といったところか。
華やかなスター奏者としては扱われていない人だが、実力は十二分、今度はブラームスの協奏曲あたりで聴衆を圧倒するところを聴いてみたいと思わずにはいられなかった。
 
アンコールはバッハ;ジーグ (無伴奏Vnパルティータ第2番より)
かなり急速なテンポで弾かれ、ちょっと技巧曲じみた感じがしたのは僻目か。
なお、休憩後、後半の演奏に入る前に、ボッセ氏のレクチャーがあった。大意、次の如し。
通訳は、いつものように美智子夫人。
 
ベートーヴェンがVn協を作曲したのは36歳の頃だが、今日はそれに近い時代の作品を3曲採り上げた。
序曲は、はじけるような力強さがみなぎる曲。
 
交響曲は、短めの曲だが、「ハイドンの105番」とも言える作風である。
作曲は1800年、まさに18世紀の様式の結晶となっている。
しかし、この最初の交響曲の中に、ベートーヴェンの大きな世界が、エッセンスとして入っている。
 
Vn協になると、作曲技法が進んでおり、第1楽章だけでモーツァルトやバッハの作品と同じくらいの長さがある。
古典派の範疇に収まってはいるものの、ロマン派の時代を予感させる、大きな構想がある。
特にオーケストラのトゥッティの大きさは、新しいものだ。
Vn独奏は、技術的にも難しいし、かつ、トゥッティを長い間、待たなければならないという苦しみもある(笑)。
私もこの曲は50回、60回と弾いてきたが、延々と待つのは辛いものだ。
第2楽章は、本当に美しく、心の奥底に届く音楽である。
ベートーヴェンがこの曲に取り組んでいた頃、「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いたことを思い出さずにはいられない。
彼は、耳の病気という困難を作曲を通じて克服し、音楽によって人々に希望を与えた。
第3楽章は、ツグミの鳴き声をモチーフにしている。
 
大阪センチュリー響とは初めての共演だが、2日間、良いリハーサルができた。
我々がすぐに理解しあえたことは、音楽に現れていると思う。
 
ショルツさんとは、17年ぶりの共演になる。
1988年のバッハ・コンクールで、受賞者の演奏会を指揮したのが私だった。
一昨日、17年ぶりに会って話をしたところ、彼女の夫君が私の昔の生徒であることがわかって驚いた。
彼女の楽器は夫君の父上のものを使っておられるのだが、実は私も50年来、知っている楽器である。

投稿者 seikaisei : 2005年02月06日 23:21

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