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2005年01月31日

舘野泉『ひまわりの海』

舘野泉『ひまわりの海』(求龍堂)
斉諧生も加入している日本シベリウス協会が会長に戴いている舘野さんの著書。
御承知のとおり、舘野さんは3年前に演奏中の脳溢血で倒れ、ようやく最近、左手だけでの演奏活動に復帰された。
本書は昨年12月の発行だが、闘病記では今ひとつ読みたくないなと思っていたところ、先日店頭で手に取ると半分強がそれ以前に『ショパン』等に掲載された作曲家やピアニスト、演奏旅行等に関する文章というので、買って読むことにした。
巻頭に置かれているのはセヴラックのピアノ曲についての章で、書名もその章の題名を採っている。
著者が作曲家の故郷サン・フェリックス・ロウラゲという南フランスの小村を訪問したとき、その周囲がことごとくひまわりの畑だったことをふまえたもの。自身の撮影になる一面のひまわりの写真が表紙や図版を飾っている。
その他の章でも舘野さんの写真は詩情を湛えて美しい。玄人はだしといっても過言ではないだろう。
闘病中に「これからは執筆と写真で活動すれば」と言ってくれる人もいたそうな。
本人は「割り振りを決められるのは癪だ、できることは自分で見つける」とおかんむりだったらしいが。
 
もちろん文章も達意にして秀抜。
クラミ;P協第2番について。
哲学や数学のように純粋で、暖かくて優しくて、ユーモアもあるし神秘的でもある。秋の森のような香りや、冬の朝の光もふと漂い、ひとつひとつのフレーズや音が、不思議な小路や森の中に誘うような輝きを放っている。(略)クラミの協奏曲に私は孤独な精神と森の対話を聴くように思う。
あるいは、ピアソラについて。
その音楽は危ないほどに美しく、恐ろしいほどの激情に満たされながら、熱く奔放であるのに冷酷であり、誇りと絶望が背中合わせになっている。こんなにも矛盾する情念がひとつに凝縮された音楽がほかにあるだろうか。
 
その他、
ラフマニノフ;P協第1番
ハチャトゥリアン;P協
伊福部昭;協奏風交響曲
等、比較的知られていない作品に関して、想いのこもった文章が綴られており、読みごたえのある一冊になっている。
 
入院とリハビリ、左手での再起については、最近TV番組でも放送されており、一つだけ紹介するにとどめる。
コンサートのあと「左手だけの演奏はもどかしく、口惜しくないか」と訊ねられたとき、ピアニストはこう答えたという。
口惜しくないとは言えないだろう。今まで弾いてきた音楽を、どうして忘れ去ることができようか。(略)
今感じているのは音楽の喜びだけである。音楽がまたできる、指を通じて全身が、自分の全存在が楽器に触れ、聴いてくださる方々と、そしてこの世界と一体になっていく、その感覚だけである。(略)
左手だけで演奏することにも、なんら不自由は覚えない。演奏をしている時には、片手で弾いていることさえ忘れている。充足した音楽表現ができているのに、どうして不足など感じることがあろう。

投稿者 seikaisei : 2005年01月31日 22:23

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