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2004年08月28日

広上・京都市響のショスタコーヴィッチ

広上淳一(指揮) 京都市響の演奏会へ行く。
会場は京都コンサートホール
入りは6~7分程度か。曲目の渋さを考えるとまずまずかもしれない。すなわち今日の曲目は、
ショスタコーヴィッチ;交響詩「十月革命」
チャイコフスキー;Vn協(独奏;米元響子)
ショスタコーヴィッチ;交響曲第6番
というもの。
一瞬、オール・ショスタコーヴィッチ・プロと見間違えそうだが、う~ん、その方が集客がよかったかも(…そうでもないか)。
 
広上は京都市響定期初登場だそうだが、平成2年に特別演奏会という名目の主催演奏会を指揮している。
曲目はハイドン;「軍隊」チャイコフスキー;「悲愴」
京都名物テンイチのラーメンのようにコッテリした演奏で、斉諧生がこの指揮者に注目するきっかけになったコンサートだったが、このあと京響は長く広上を招かなかった(苦笑)。
 
さて、「十月革命」は、序奏からずっしりした弦の響きが刮目すべき素晴らしさ、普段の京都市響とは一線を画す出来栄え。
Hrnが少し頼りない音を出していた(特に序奏)のと、相変わらずObが非力なのは、残念だが。
力感も切れ味もある、まことに堂々たる音楽で、こんなに良い曲なのにどうして実演も録音も少ないのか…と不思議がらされた。
広上はノルショピング響と録音もしており、作品を手の内に入れているのだろう。
 
チャイコフスキーの独奏者・米元響子は現在パリでジェラール・プーレに就いているそうで、ジュリアード流とはひと味違ったヴァイオリンが聴けるのではないかと期待して開曲を待った。
案に相違なく、冒頭の音色・和声感覚は温かいもので、節回しも堂に入っており、しっとりした抒情的な音楽が美しい。
一方、スケールが小さいのは気になった。
チャイコフスキーの音楽には、大向こう受けを狙ったどぎつさ・あざとさも含まれているのだが、必ずと言っていいほど、あっさり通り過ぎてしまう。
音量も小さく、激しく弾いている部分でも「迫力」として伝わってこない。
 
小規模なホールでモーツァルトの協奏曲や、室内楽作品でも聴いてみれば、さぞ快かろうと思うのだが、大ホールでオーケストラと張り合うような曲を弾くにはまだまだ…という感じだ。
また管弦楽パートは、広上が音符を掘り起こすかのように丁寧に鳴らしていくので、一層ソロの分が悪くなってしまった。
 
ともあれ昨今逸材揃いの邦人提琴家に、またまた有望な若い奏者が出現したわけで、今後の成長に強く期待したい。
若手ばかりでなく中堅実力派も定期演奏会に招いてもらいたいが。
 
第6交響曲は、いきなり緩徐楽章から始まり、アレグロ、プレストと3楽章構成の特異な作品。
第1楽章のラルゴが、深沈と鳴りわたる。
オーケストラも素晴らしい出来で、ちょっとムント在任時を思い出した。
特にヴァイオリン群が高音域でも音程が乱れず音色が硬くならず美しい響きを聴かせてくれたことや、金管の肉厚の鳴りっぷりには感心した。
 
ただ、ショスタコーヴィッチの緩徐楽章における、胸を締め付けられるような悲痛さや、どこか遠くに連れ去られる心地のする透徹さを感じる瞬間は、残念ながら無かった。
 
間然とするところのない第2楽章を挟んで、第3楽章は、やや意外な音楽。
ショスタコーヴィッチ特有の、つんのめるようなリズムで弦が走り出すこの楽章、広上ならば必ずやオーケストラを煽りに煽り、指揮台の上で踊りまくるのでは…と予想していた。
ところが、さほど速くもないテンポで、それ以上に音楽が落ち着いている。つんのめったり煽ったりというところがなく、きっちりと積み上げられていく感じ。
以前の「阿波踊り」のごとき指揮ぶりも見られない。
 
ここは狂躁の音楽ではないのか…と思いつつ、まずは充実した音楽に拍手を贈ることにした。
 
京響は今年度に入って初めて聴いたのだが、プログラムが入場時に無料で配られるようになっていた。
これまでは(20年来)、毎回、ロビーで販売されているのを購入してきた。最初の頃は100円だったが、近年では300円。
中味も少し愛想の良いものに工夫されており、喜ばしい傾向である。
 

投稿者 seikaisei : 2004年08月28日 02:10

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