指揮台上のカザルス   名匠列伝
 

パブロ・カザルス

Pablo Casals

(1876-1973)


指揮者としてのパブロ・カザルス

指揮者デビュー

 カザルスは、1876年12月29日、スペイン・カタロニア地方の町ベンドレル生まれ。チェリストとしては1890年代から演奏活動を始め、1900年代の前半には名声を確立している。

 指揮者としてのデビューはかなり早く、1908年2月に3回にわたってコンセール・ラムルー管弦楽団の演奏会に指揮者兼ソリストとして登場、ベートーヴェン;交響曲第5番ブラームス;交響曲第3番ほかを指揮している。

 

パウ・カザルス管弦楽団

 1919年、それまでパリを本拠としていたカザルスは、第一次世界大戦などをきっかけに故郷カタロニアへ戻る。
 翌年には当地でパウ・カザルス管弦楽団(パウは「パブロ」のカタロニア語)を組織し、本格的な指揮活動を開始した。

1920年10月13日の第1回演奏会の曲目は
J.S.バッハ;管弦楽組曲第3番
ベートーヴェン;交響曲第7番
ラヴェル;「マ・メール・ロワ」
リスト;交響詩「理想」
というもの。これらのパート譜はハンス・リヒターの遺品(未亡人から購入したもの)だった。

 このオーケストラで指揮したレパートリーにはグラナドスやアルベニス等のスペインの作曲家以外に、

R・シュトラウス、マーラー、ミヨー、オネゲル、プロコフィエフ、ストラヴィンスキー、バルトーク、コダーイ、シェーンベルク、ウェーベルン

等が含まれていた、という(!)。
 このうちマーラーは、1924年11月に交響曲第4番を指揮したことがわかっている。ソプラノは当時の夫人スーザン・メトカーフであった。

 

 1923年5月、若き日のサー・エイドリアン・ボールトがパウ・カザルス管弦楽団に客演した。彼は約1月にわたってバルセロナに滞在、カザルスのリハーサルを見学した。ボールトは語っている。

カザルスは偉大な教師であるがゆえに偉大な指揮者である。

カザルスの指揮は、後年まで、この特徴を失わなかった。マールボロ等でのリハーサルの録音を聴くとよく分かるが、ほとんど口写しにフレージングやアクセントを教え込むのである。その点、チェロの個人レッスンと変わらないかのようである。

 

不評さくさくの客演指揮

 手兵の指揮のかたわら、あちこちのオーケストラに客演した。手許の資料で曲目等がわかるのは次のようなもの。

1922年4月:ニューヨーク・フィル
ベートーヴェン;交響曲第6番ブラームス;交響曲第1番
1925年9月:ロンドン交響楽団
ブラームス;悲劇的序曲シューベルト;交響曲第8番「未完成」
1927年:ウィーン・フィル
ベートーヴェン;交響曲第8番

 ただし、指揮技術はかなり未熟で、客演したオーケストラの楽員からは、しばしば反発された、というか、馬鹿にされたらしい。

BBC響;「棒がわかりません。ちょっとチェロで見本を演奏してくれませんか。
ロンドン響;「彼のテンポは独奏の時には完璧だったが、指揮棒を持つと立往生してしまうようだった。
ウィーン・フィル;「彼が何を指揮するつもりか、私は知らないよ。我々は『田園交響曲』を演奏するつもりだがね。

 レコード録音も行っているが、野村あらえびす曰く

カサルスは優れた音楽家で尊敬されていいが、レコードの上では指揮者として活躍したものは多くない。ベートーヴェンの『第四交響曲』その他二、三、ビクターから出ているが、いずれも大したことはない。
(中公文庫『名曲決定盤(下)』)

 

亡命と沈黙

 1936年、スペイン内乱が勃発する。7月18日、バルセロナに戦火が及んだ時に、折しもベートーヴェン;第9交響曲のリハーサル中で、第4楽章を演奏してオーケストラを解散したエピソードは有名である。
 その後もしばらくは演奏活動を続けており、スペインでの最後のコンサートは1938年10月19日のチャリティ・コンサートで、グルックとウェーバーの序曲を指揮し、ドヴォルザークとハイドンの協奏曲を独奏した。

 

 最終的にフランスへ亡命したのは1939年1月26日のことで、スペインとの国境に近い町プラドに住む。南部フランスはドイツの占領こそ受けなかったが、親独派政権の統治下にあり、反フランコ・反ファシストのカザルスには辛い日々だった。
 1945年6月から演奏活動を再開するが、戦後も各国政府がフランコ政権を容認することに反発し、1945年11月13日パリのサル・プレイエルでの演奏会を最後に演奏活動の停止を宣言する。

 

プラド音楽祭の発足

 プラドに引きこもったカザルスのもとに、あちこちからチェリストがレッスンを受けに来るようになった。その1人、バーナード・グリーンハウスボーザール・トリオ初期のチェリスト)が友人のヴァイオリニスト、アレクサンダー・シュナイダーブダペスト四重奏団の第2ヴァイオリン)に話をしたことから、カザルスが音楽活動を再開することになる。
 1947年夏、シュナイダーは、プラドのカザルスを訪問し、バッハ;無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータのレッスンで意気投合した後、カザルスの説得にかかった。「天文学的なものだった」とカザルスが回想したほどの金額を提示し、バッハ没後200年にあたる1950年にアメリカでイベントを、というプランを持ちかけたのだ。しかし、カザルスは断固として断った。

 

 シュナイダーは、帰米後、ミェチスラフ・ホルショフスキ(1892年生れ、1993年に死去したピアニスト。カザルスとは1905年以来の知り合い)にこぼした。

シュあのジイさん、アカンわ、何ゆうても聞きよらへん。
ホルそら、カザルスをアメリカに連れてくるんは無理や。そやけどな、わしらがプラドに行くのは、無理やないで。
シュあ〜、わしはなんちゅうアホやったんや! なんでそれに気がつかへんかったんや!

 

 シュナイダーは、1950年にプラドでカザルスを音楽監督とするバッハ・フェスティバルを開催する案を提示し、説得に成功した。資金はアメリカ・コロンビア社が負担し、音楽祭での演奏を録音して、開発まもないLPで発売することになった。
 音楽祭管弦楽団のコンサートマスターはもちろんシュナイダー、チェロのトップはポール・トルトゥリエ(まだソリストとして活動し始めたばかりの頃である)、フルートにジョン・ワマー(ニューヨーク・フィル首席)、オーボエはマルセル・タビュトー(フィラデルフィア管首席)らが集まった。ただしトゥッティの大半は、主としてアメリカの若い演奏家で、中には実力の伴わない者も混じっていたという。

 

 トルトゥリエは、こう回想する。

私たちはブランデンブルク協奏曲第1番からリハーサルを始めた。第2楽章で、オーボエとヴァイオリンがニ短調で交わす張り詰めた対話にカザルスが示した深い感情を、私は決して忘れないだろう。あの楽章をカザルスと一緒に演奏することは、言葉に言い尽くせないほど感動的だった。…私達はすすり泣き、バッハの精神の近くまで導いてくれたカザルスにひざまずくような気持ちになった。

 翌1951年はプラドでの会場(サン・ピエール教会)が使用できなかったため、近隣のペルピニャンの「マヨルカの王宮」を会場として開催された。
 しかし、1952年頃から、財政難もあって、コロンビア・レコードの意向が音楽祭のソリスト・曲目に強く反映されるようになる。

例えば、イヴォンヌ・ルフェーブルは「アメリカの聴衆に馴染みがない」として外される一方、アメリカのコロンビアのアーティスト総動員となった。
また、オーケストラ曲は敬遠され、カザルスをメンバーとする室内楽曲が重視されるようになる。

 しかも、カザルスを筆頭とする演奏者達のわがままに振り回されたシュナイダーらが音楽祭から手を引いたこともあり、1954年には室内楽のみのプログラムに縮小を余儀なくされる等、プラド音楽祭は徐々に低調となっていった。

 

プエルト・リコ、そしてマールボロへ

 1955年頃からカザルスはプエルト・リコへ本拠地を移していくようになる。プエルト・リコはカザルス最愛の母の故郷でもあり、晩年を看取ってくれた愛妻マルタの故郷でもある。
 1957年、カザルスは、プエルト・リコのサン・ファンでカザルス音楽祭の開催を計画、例によってシュナイダーらが馳せ参じて、リハーサルが始まった。ところが、4月16日、シューベルトの「未完成」交響曲のリハーサル中、心臓発作に襲われ、出演不能となってしまう。この年はシュナイダーがコンサートマスターの席から指揮して音楽祭をこなした。
 1959年から指揮活動に復帰し、1960年、ルドルフ・ゼルキン主宰のマールボロ音楽祭に初めて参加し、7月10日、モーツァルト;交響曲第29番を指揮した。
 1960年、自作;カンタータ「エル・ペセーブレ」を初演。「ペセーブレ」とは「まぐさ桶」の意味で、キリスト生誕を通じて愛と平和を歌い上げる、カザルスの自信作で、以後、各地で指揮すること33回におよんだ。

 

東京公演パンフレット
東京公演パンフレット

京都のカザルス

 1961年、カザルスは日本を訪れる。弟子平井丈一郎を帯同し、彼の帰国公演を指揮するためである。演奏記録は次のとおり。

4月11日:東京交響楽団(日比谷公会堂)
ベートーヴェン;交響曲第4番シューマン;チェロ協奏曲ラロ;チェロ協奏曲
4月14日:東京交響楽団(日比谷公会堂)
モーツァルト;交響曲第29番ボッケリーニ;チェロ協奏曲ドヴォルザーク;チェロ協奏曲
4月20日:京都市交響楽団(京都会館第1ホール)
ドヴォルザーク;チェロ協奏曲(演奏会前半は、京響の常任指揮者チェリウスが指揮)

 カザルスは4月18日夜に京都に入り、19日午前10時から午後1時過ぎまで、15分間の休憩を挿んだだけで、熱心にリハーサルを行った。冒頭4小節のフレージングを繰返し練習、1時間経っても8小節しか進んでいなかったという。

初めは椅子に腰をかけたまま指揮したが、次第に熱を帯びてくるにつれ椅子から乗りだし、力と熱のこもった指導ぶりで、巨匠の音楽に対するきびしい態度が指揮棒の先からほとばしり出るようだった。」(京都新聞)

 

最晩年の演奏活動

 1963年、マールボロ音楽祭でのベートーヴェン;交響曲第8番メンデルスゾーン;交響曲第4番「イタリア」のリハーサルを聴いていたゼルキンは録音を決意する。彼は直ちにコロンビア社へ電話し、「費用は音楽祭事務局で負担するから」と説得して、コロンビア社の録音スタッフがマールボロにやって来ることになった。これをきっかけに、カザルスの指揮芸術の集大成とも言うべき、一連のレコードが製作されることになる。
 もっとも、最近ようやく発表された音源もあり、また、バッハ;マタイ受難曲ベートーヴェン;交響曲第9番「合唱」は、音源の残存が噂されつつ、まだ公表されていない。
 1971年10月24日、伝説的な国連デー演奏会がニューヨークの国連本部で行われた。カザルスは、自身が作曲した「国際連合讃歌」の初演、バッハ;2つのヴァイオリンのための協奏曲(独奏はアイザック・スターンシュナイダー)、3台のピアノのための協奏曲(独奏はホルショフスキゼルキンイストミン)を指揮した。この時のアンコールが、あの「鳥の歌」である。

 1973年はカザルス最後の年であるが、7月にマールボロ音楽祭でベートーヴェン;交響曲第1・2・4番ハイドン;交響曲第96番を、9月にはイスラエルを訪問してモーツァルト;交響曲第33番を指揮している。

なお、この年、マールボロにグレン・グールドがやって来る。カナダ・CBC放送の番組(「カザルス−ラジオのための肖像」)製作のためであるが、残念ながら、手許の資料にはエピソードが見当たらない(もし、この2人が顔を合わせてバッハを語ったなら・・・)。

 9月30日、プエルト・リコの友人宅で致命的な心臓発作を起こしたカザルスは、10月22日午前2時、サンファンの病院で死去した。享年96歳。

ロバート・バルドック著『パブロ・カザルスの生涯』
(浅尾敦則訳、筑摩書房、1994年)等を参考にしました。)


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