シベリウス;交響曲第5番

 後期交響曲の中で最もよく演奏される曲である。晦渋さがなく、金管の動機が広々と雄渾に高揚して終結するあたりが人気の源泉であろうか。ジョルジュ・プレートルエンリケ・バティス等、到底シベリウス指揮者のイメージがない面々の録音さえ存在する。
 
 全曲の終結が、まことに特徴的。総奏の和音が6回、全休止を挟みながら、轟然と鳴らされる。休止符のところで耳を澄ますと、指揮者の足音、唸り声、指揮棒を一閃させるときに腕が空を切る音などまで聞こえるのが面白い。(笑)
 
 ここで楽譜上の問題が一つ。
 6回の和音のうち、1・5・6番目のみティンパニが加わるのだが、1番目には2つの、5・6番目には1つの前打音が付されている。
 特に後者では、ティンパニがフライングしたか、そうでなくても、えらく間が抜けたように聴こえることが多い。このため、前打音を省略する場合も少なからずある。
 
 一般的に言えば、昔は省略させるケースが多く、原典指向の風潮が強い最近では叩かせることが多い。
 
 ベリルンドの演奏に関しては、1970年代のボーンマス響盤から、楽譜どおりの処理となっている。現在 Wilhelm Hansen社から出版されているスコアは彼が校訂したものであり、そうした学識のゆえであろう。
 
 なお、出版譜には楽章の区分がないが、ここでは通用に従って3つの楽章区分を用いる。
Disky HR703862 ボーンマス響
録音;1973年6月、サウザンプトン HR 703862 (Disky)
第1楽章 第2楽章 第3楽章
13分26秒 9分07秒 9分27秒
下記の2盤に比べると、ボーンマス響盤はずいぶん落ちる。
表現の方向性は既に固まっていたようで、その面では大きな差はないのだが、オーケストラの技量が、かなり劣るようだ。
音程が悪いのか弦合奏の和音が汚いし、強奏時には雑然としてしまう。
また、録音(ないしマスタリング)が悪いのか、音が全体にぼやけて聴こえ、緊張感が削がれている。
EMI、CDC7-49175-2 ヘルシンキ・フィル
録音;1986年12月、ヘルシンキ CDC 7 49715 2 (EMI)
第1楽章 第2楽章 第3楽章
13分41秒 8分0秒 8分43秒
ヘルシンキ・フィル盤も素晴らしい演奏であり、これだけを他盤と比較すれば、じゅうぶんベストを争う高みに達している。
 
ヨーロッパ室内管盤より優れているのは、木管の音色である。Flの明るい清澄さ、Obの可憐な美しさは、こちらの大きな特色だ。
特にObはヨーロッパ室内管のアキレス腱であり、ここにこだわる人はヘルシンキ・フィル盤を採ることになるだろう。
 
上述した第2楽章の主題のたゆたいや、第3楽章の浄福感は、この演奏でも聴くことができる。ヨーロッパ室内管盤と比較しなければ、十二分に満足できるものだ。
 
ただ、やはり編成の大きさからか、録音(残響)の加減からか、対位法や内声の意味深い動きの表出という点では、一歩を譲らざるをえない。
弦合奏の音なども、まだまだ「楽器の音」に聴こえるのである。
FINLANDIA、0630-17278-2 ヨーロッパ室内管
録音;1996年12月、ネイメーヘン
(オランダ)
0630-17278-2
(FINLANDIA)
第1楽章 第2楽章 第3楽章
12分36秒 8分42秒 9分10秒
結論を言えば、ベストとして採るべきはヨーロッパ室内管盤である。
ここで鳴っているのは、もはや楽器の音ではない。自然の音である。
それは北欧の動物植物気候風土には限らないかもしれない。人間の内部、意識によって管理される層の更に深奥に存在する自然かもしれない。
 
第1楽章はHrnと木管の動機反復で始まるが、それが一段落して弦合奏が入ってくるときの fz の響き(急激に p に落とされる)を耳にしただけで、ベリルンドがヨーロッパ室内管から引き出している音が普通のオーケストラの楽音ではないことが聴いて取れるはずだ。
弦の刻み、HrnやClのこだま、Fgの歌…いずれも人間の手になるものとは思えない、遠く離れた世界の音だ。
 
楽章前半から後半へ移行する部分( Hansen のミニチュア・スコアでは28頁)、金管の猛然たるクレッシェンドとHrnの咆哮は、おそらく他盤から聴くことはできまい。そこで世界が急変し、広々とした風景が現前するのだ。
 
楽章終結では、もっと音量壮大な演奏がいくらもあるだろうけれど、シベリウスの音楽はそれを求めてはいないことが、このCDから明らかになる。
 
第2楽章の主題はピツィカートで提示されるが、それがアルコで奏されるとき、絶妙なディミヌエンドが醸し出す、音楽のたゆたい、懐かしさ、はかなげな情趣
この感触も他の指揮者からは聴けないものだろう。
 
この楽章の終わり、弦が歌い納めるところのリタルダンドはずいぶん控えめだが、やはり自然は微笑まないのであろう。
 
第3楽章では、楽章の終わり近く、Vc以上の弦楽器が第2主題を奏ではじめ("Un pochettino largamente")、更にTrpが動機を反復しだすと("largamente assai")、Va以上の弦楽器が第2主題の前半を2度繰り返す。
 
ここでの浄福感、これこそシベリウスを聴くよろこびであり、音楽を聴く幸福である。
 
作曲家が第5交響曲の仕上げにかかり第6・7交響曲のデッサンも始めていた頃、1915年4月21日午前11時10分前。
16羽の白鳥が彼の上を旋回し、やがて陽光の照るもやの中を、銀のリボンのように消えて行った
(『作曲家別名曲解説ライブラリー 北欧の巨匠』音楽之友社)
 
その鳴き声はトランペットに近いものだったという。
 
シベリウスが楽譜に書き付けた、この「生涯の最も大きな感銘の一つ」を、純粋なかたちで追体験する瞬間である。
 
惜しむらくは、楽章終結でTrbあたりが、ちょっと割れた、生々しい音を出してしまうところである。ここがスカッとした透明度の高い吹奏で終始しておれば…。

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