何といってもシベリウスの交響曲中、最も有名であり最も演奏される曲。録音も膨大にあると思われる。先頃没した朝比奈隆もレパートリーに加えていたし、ポール・パレーの録音も存在する。→ここを押して 一般的には、作曲当時(1901年)、ロシアの専制支配下にあったフィンランドにおける愛国的心情、ナショナリズムの(来るべき)勝利を謳歌した曲であるという、標題的な解釈が行われている。 演奏会においても、終楽章のコーダでは金管群の圧倒的な吹奏が高揚の上にも高揚して、拍手大喝采…というのが、お約束だ。 第1楽章がソナタ形式ながら比較的軽いつくりになっている(演奏時間も短い)点や、第3楽章から切れ目なしに第4楽章に突入して勝利の讃歌が全容をあらわすというベートーヴェン;運命交響曲そっくりな点が、こうした楽曲把握を裏付けていると言えるだろう。 昔々、『音楽現代』誌上で、宇野功芳師と故・福永陽一郎氏の対談による音盤選びが連載されており、この曲が取り上げられたことを記憶している。従来、斉諧生も基本的にはそのような捉え方をしてきた。 ところが今回、ベリルンドの録音を聴いて、ちょっと考え直さなければいけないかもしれないと思っている。 彼の音盤は3点とも、終結で金管が壮麗かつ圧倒的な吹奏を聴かせる…ということはない。一緒に盛り上がるはずのTimpも、ごくごく控えめにしか聴こえてこない。 この曲からは、「『フィンランディア』と同じ」ではない、もっと複雑な、精神的なものが聴き取れるのではないか。 これからも、いろいろな演奏を聴きながら、考えていきたい。 ベリルンドの解釈自体には、3盤を通じて、さほど大きな変化はない。 もちろん少しづつ練られていった跡は見えるが、他の曲で聴かれたような次元の違いや落差は感じなかった。 そのため、オーケストラに固有のサウンドの違いが前面に出ることになる。 |
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